なるたる読んだ

興味はあったものの読んだ事なかったのだが、電子書籍で一巻が無料だったので手を出してしまった。そのまま最後まで一気に読んでしまった。

僕の読解力の低さでは取り零しも多々あり、解説サイトなど巡って補足を得て、ようやくなんとか「一旦読めた」と言えるか怪しい程度には読めた。

壮絶というかなんというか…逆にどストレートに主張を込めて描かれた、とも言えるかもしれない。非常に複雑だったり難解だったりな構造をしてるけど、「読み手に委ねる」思惑は多分ほとんどないと思われる。

数式の様に、適切に読み解けば必ず同じ解に辿り着く様に、少なくとも作者の鬼頭莫宏先生は「描いたつもり」なのだろうと思う。でも多分大多数の人は、大変な苦労をかけてなんとか読み解き、しかも解説してくれている先駆者様方の力を借りる事になると思う。無学な僕も当然その内にいる。要するに、一般的に親切な作りとは言えない。

なのでいつも通り…というかいつも以上に、乱暴に感想だけしたためておきたいんだけど、どんな感想を抱くかすらも作者に掌握されてそうな感じもあるので、何を言えたものか…まぁいいか。

 

 

(*以下ネタバレを含む)

 

結局、巻末の作者コメントにも書かれている様に、命というのは代替しうるものであって、誰かが誰かである必然性などというものは妄想に過ぎず、だからこそ必死に縋っとけ、というのを体現してくれる話の様なのだが。

どっかの小学校では、生徒に豚を飼育させ…名前を付けさせて可愛がらせて、最終的には屠殺して食わせる、という事をしているらしい。(たしか映画化したんじゃなかったかしら)

子供達にとっては特別な個体だったはずで、「豚さん」じゃなくて、付けた名前で呼んだりしたはずであろうから、泣いたり吐いたりしながら食うんだろうけど。翻ってスーパーや精肉店に並ぶ豚肉は、バラかミンチかその位の差異はあるにせよ、どれを取ったって、食材としての豚肉以上のものにはなり得ない。

命の価値とは何なのか、どこに見出してるのか、その正体は、対象の個体にまつわる「記憶」とか「思い入れ」とかそんなんなのだという訳である。肉親、友人、想い人。外国でテロがあって何人死にました、というニュースを聞いて、突然の肉親の死の報せを聞いた時と同じレベルで狼狽したり錯乱したりする事はまずあり得ない。

なるたるは最終話までのエピソードを通して、主人公がどういう力を持っていてどんな使命を負っているのかとか、世界観の説明を済ませたり、主人公達がどの様にして相互に感情移入するかを描いていく。そうして、読者もろとも主人公に、前述の様な命へのしがらみを色々な人々に対して纏わせ、すがらせる。そして最終話で、そのしがらみが一切合切無くなったとしたらどうするか、というのが描かれている。それが主題になる。

シミの付いたシャツを買い換えない理由は何か?そのシミの付いたシャツを捨てておいたら、新たに買わざるを得ないはずではないのか?そんな感じである。この稚拙な比喩を引き摺るなら、物語は、お気に入りが見つかるまで新品のシャツを買い換えよう、という顛末で終えられる。

(要領を得ない文章を書いといてさらに厚かましい事を申し上げると、)なんとなく感じていただけたかもしれないが、まぁその、凄絶な展開が続く漫画ではあるのだけれど。思うに、鬼頭莫宏先生は、かといって別に人間が嫌いとか、みんな死にやがれとか、いやそれはもしかしたらあるかもしれないけど、絶望してるとか抹消するべきだとか思ってる訳ではないのかな、と思う。

何故なら、「お気に入り」の概念を否定する様な描写は、作中、多分ほぼ無かったからだ。自分あるいは他者の生命に纏わる記憶や感情といったある種のしがらみを抱く事に対して、概ね肯定的というか、むしろ奨励している節すらある。(ていうか、色んなキャラ同士のそれが衝突するせいで、悲惨な展開になったりする。)

多分そういう、こだわりの様なものが、わざわざ人格を持って生きる理由になる、という事なのかもしれない 。

非常に不思議な感じだが、この決して清らかではない、ともすればおぞましい凄絶な物語を、煮詰めて焦がしてまだ焼いて、最後の最後に残るのは、生命というよりも、人間への賛美なのかも、と推測したい。でも、愛とも期待ともちょっと違う。あえていうなら「固執」が近いのではないか。

ドギツいが、消費されるだけの漫画ではないと思う。美味しい駄菓子にはなり得ないだろうが、拾ったカラスの羽を宝物と称して小箱にしまう様な、仄暗く不潔で後ろめたいがなにか甘美な満足感を得る、そういう何かが拾える可能性を持つ漫画だと思う。

以下は完全に余談である。

かつてネットで取り上げられて騒がれた様な残酷な描写や展開というのは、確かに存在はするが、手段や過程であって目的ではないのだろうと思う。何故ならあまりに淡々としているから。

惨い瞬間のシーン(例えば頭が引きちぎられたり銃火器でミンチにされたり)はむしろ引きの画が多い。アメリカのバイオレンスホラー映画やゲーム(ファイナルデッドコースター?だとかモータルコンバットなど)などからすれば、そこが娯楽的要素になるのだから、思い切り描写したりする、そういう造りはしていない…と言えるはず。

多少なり趣味が入っている可能性を否定しきるではないが、本質ではなかろうと。とはいえもちろん、読者を選ぶに十分過ぎるレベルの過激なシーンを多々含むけど。

ドリエル

眠れないので近年気付いた最重要ワードを留める。

「頑張ってもいい」である。

これは「頑張る」という重要な項目に辿り着く為のカギでありドアノブである。

「頑張る」までの道のりは遠く険しい。様々な困難があるが、とりわけ最も挫けるのは、邪魔が入る事である。「その頑張り方でホントに意味あんの?」とか、「それで、最終的には何を得られるの?確証はあるの?本来ならこういう頑張り方をするべきであって、君のは違うみたいだけど、無駄じゃないの?」とか、そういう正論だったり、人によってはただの茶々だったりする。しかしこれらは、どれだけ正しくても、「なんでもいいから今、どっちを向いてるかなんてわからないけど、前に進みたい」という意志からすれば、邪魔になってしまう。

頑張りたい時というのは大抵、下を向いてて方向がわからない時か、スピードが乗ってて方向転換がスムーズにできない時だ。外から客観的に見れば滑稽に見えるかもしれない、右往左往している事を頑張ってると表現する事を、彼らは許してくれない。

頭を上げて冷静に先を見据えて、方向を定めて、一歩ずつ歩んでゆけばいい、というのは正しく正攻法であり、あるべき姿だ。出来るならそうした方がいい。めまいが起きても、周囲に足を引っ張られても、冷やかされても、或いは期待され、期待し、それを裏切り裏切られても、逆に誰にも全く期待されず、ようやく何かを得られた暁に、友達だと思っていた人が冷笑したり嫉妬してきても、絶えず歩んでゆく事を続けて行けるなら、それがまさしく理想だ。

俺にはそんな瞬間は一度もなかったと言っていい。

作品を見せたのに何も言われないとか、気を遣われたりとか、逆にダメ出しはいくらでも出てくるのに全然良いところ言ってもらえないとか、そもそも見てくれないとか、ほぼそんな経験しかない。

一番面白い漫画を描いた、一番綺麗な絵を描いた、その為に膨大な時間を費やした、その全てが「つもり」だったと言われてるような、もっと頑張るしかないとか、努力が足りなかったとか、次はこうしたらいいとか、ホントに描きたかった話なのかとか、簡単に言われたりする。

それについて文句があるとかないとか、そんなのは全然大した話じゃない。「あの作業が、思考が、全部『つもり』で片付けられて終わり?」である。それは果たして、「頑張ってよかったのか」?という気持ちになる。正論とは、「お前みたいに才能ないやつでも、時間をドブに捨て続けていれば、『塵も積もれば』で、いつか地表に出られるかもよ」と、こちらとしては言われてる気分になる。無駄が悪なら、俺が努力するという事の悪性は高い。読むのだって時間を払う。描き手の作業時間と読み手の読む時間がそのまま損失になるのだとしたら、確かに悪と言える。

そんな事を考えていては、歩くどころか、立ち上がれなくなる。そんな事ばかり繰り返しているうちに、足腰は弱くなり、ついに本当に立ち上がれなくなる。幻想でもなんでもなく、現実に、そんな人はいくらでもいるはずなのだ。

だからそこで、「頑張ってもいい」のだ。

これのいいところは、無条件で良いところだ。許す。それだけ。

頑張ってるやつに安全圏から石を投げるやつとはそもそも関わらなくて良い。笑ってるヤツが先をいってるヤツならムカついていい。安全圏で笑ってるヤツは毒にも薬にもならないからそこで死ぬまで笑って死んどけって思ってればいい。励ましてくれるヤツ、一緒に頑張ってくれるヤツ、なら、いくら増えてもいい。ヤバそうなヤツだったら逃げればいい、逃げる方向に進める。実は、人は頑張ってもいいのだ。

足腰が弱くなるよりマシ。沼の底で今よりずっと高い金稼ぐよりマシ。頑張らないよりマシ。死ぬよりマシだ。

キツくなったらうずくまって、また頑張ってもいい。永久機関の完成。あとは弾みで死んじゃうまでは頑張れるはず。

とりあえずやるのだ。始めればなるようになる。机上の彼に言いくるめられてる程、人生は長くはないはず。やっていいのだ。